楽天球団副会長で中日、阪神、楽天で監督、北京五輪では日本代表監督を務めた星野仙一氏が4日に亡くなっていたことが5日、分かった。
70歳だった。
現役時代は「燃える男」との異名がついた気迫のピッチングで通算146勝をマーク。「闘将」と呼ばれた指揮官としては、率いた3球団すべてを優勝に導き、楽天では日本一に輝いた。昨年1月には野球殿堂入りを果たし、1か月前には元気な姿を見せていたばかり。
日本球界の発展に多大な功績を残した“巨星”の訃報に、球界は大きな衝撃が走った。
球界関係者によると、星野氏は膵臓がんで闘病中だった。
一昨年に告知されたものの、周囲には一切知らせず、球場で持病の股関節が痛んでも「(楽天の)トレーナーに診てもらうとバレるから」と治療も受けなかったという。
年末には家族でハワイ旅行を計画していたが、体調を崩し急きょ中止に。
家族と正月を迎え、おせち料理も楽しんだが、2日に倒れ、容体が急変。4日午前5時25分に愛する家族にみとられ、旅立った。
最期は2人の娘に抱きかかえられ、その表情は安らかだったという。
すでに5日に親族だけで通夜を済ませており、今日6日に密葬を執り行う。
お別れの会は後日、行う予定だ。
星野氏が最後に元気な姿を見せたのは、昨年12月1日、大阪市内で行われた自身の「野球殿堂入りを祝う会」。ソフトバンク・王会長や阪神・金本監督らの球界関係者だけでなく、政財界、芸能界などから約950人が集結した。
この席で星野氏は自身が監督を務めた阪神と楽天の「甲子園球場での日本シリーズ」実現を熱望し「私が生きている間にやってもらいたい。
自分の夢だ」とあいさつ。
金本監督らに猛ゲキを飛ばしたばかりだった。
それだけに出席者からは「少しやせた印象はあったものの、口調はいつもの星野さんでした。まさか病気だったとは…」との声が。
すでに闘病生活を続けていたものの、自分のために集まってくれた周囲を心配させないよう、いつも通りの姿を見せようと努めていたのだろう。
そんな星野氏を支えていたのは強い「反骨心」だった。
現役時代は「打倒巨人」を公言し、気迫を前面に押し出す強気のピッチングで長嶋、王を擁するV9巨人に向かっていった。
指揮官になってもそのスタイルは変わらない。
ふがいないプレーをした選手には鉄拳制裁もいとわず、納得のいかない判定には猛抗議で、乱闘になれば真っ先にベンチを飛び出した。
半面、選手に対する愛情も人一倍。裏方さんらへの配慮も欠かさず、選手の妻たちは星野氏からの誕生日プレゼントに驚き、涙した。
人間味にあふれた指揮官だった。
そんな星野氏の人柄には、球界のみならず政財界など、多くの人たちが引きつけられた。阪神シニアディレクター、楽天副会長でのフロント時代はそうした人脈を生かし“優れたGM”としての手腕も発揮した。
健康面では阪神監督時代、高血圧に悩まされたことが退任の大きな理由の一つとなり、楽天監督時代は持病の腰痛を悪化させ、難病の腰椎椎間板ヘルニアと胸椎黄色靱帯骨化症と診断され休養。
これが退任につながった。
とはいえ、今回の病気については周囲にはほとんど知らせておらず、それだけに衝撃が広がっている。
相手が強く、巨大であればあるほど闘志を燃やしてきた星野氏。
ただ、そんな燃える男も、病魔には勝てず。「夢にまで見た日本シリーズ」は“遺言”となってしまった。
球界が失ったものは、あまりにも大きい。
【プロフィル】
ほしの・せんいち 1947年1月22日、岡山県倉敷市生まれ。右投げ右打ち。倉敷商、明治大を経て、68年ドラフト1位で中日入団。当初の背番号は22だったが、入団3年目にエースナンバーの20に変更。先発、リリーフで活躍し、リーグ優勝した74年には15勝9敗10セーブの成績を挙げ沢村賞を受賞した。引退後は中日、阪神、楽天の監督を歴任。中日で88、99年、阪神では2003年にリーグ優勝。楽天では13年に球団初のリーグ優勝と日本一を達成した。08年の北京五輪では日本代表監督も務めた。監督通算1181勝は歴代10位。03、13年には正力松太郎賞を受賞。昨年1月には野球殿堂入りを果たした。
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